一千一秒物語 (新潮文庫)
解説によると、稲垣足穂は飛行家になりたかったらしい。
空にあこがれ、雲の間を複葉機で自在に飛び回る夢は叶わなかったが、
星や月や天空と、自分の心との距離とは、自在な空想力によって近づいたようだ。
――夜更けの街の上に星がきれいであった
たれもいなかったので 塀の上から星を三つ取った
−家へ帰ってポケットの中をしらべると 星はこなごなにくだけていた
Aという人がその粉をたねにして 翌日パンを三つこしらえた
(「一千一秒物語」より)――
なぜ月は天空を回るのか?なぜ星はこんなにたくさん夜空に見えるのか?
人は知識として聞いて、わかったフリをしているだけ。
月がある、星がある、その存在だけで不思議な現象なのだから。
ほうき星がビールびんの中に入ったり、お月様を食べてみたりといった作中の現象も、
現実世界では未だ遭遇したことはないかもしれないけど、
不思議な世界への扉は、ある日突然自分にだけ開くかもしれない。
自分さえ心を空に向かって開いてさえいれば、ね。
…そんな気分にさせてくれる本です。
稲垣足穂 [ちくま日本文学016]
童話、小説(現代モノ数篇、時代モノ一篇)、日記、エセー(評論というか思想書)が収録されており、巻末の年表を見ると稲垣足穂を「体感する」にはバランス良く編まれいることが知れた。冒頭の掌編集を読んでいると、星新一を彷彿とさせるような、さりとてハリウッド製カートゥーンを見ているようなとんとん拍子なリズム感、句読点を一切排除した文体(改行を多用している訳ではない)、月と彗星に対するフェティシズムに、時代を超越した(大正や昭和初期に執筆されたとはとても思えない)奇才を思わせたが、読み進むにつれ、私小説的要素のある作品が登場する中盤あたりから、終盤の形而上的芸術論の大爆発に至っては、小生のキャパシティーを凌駕し、鬼才の文章を目で追うのが精一杯で、佐々木マキの解説に登場する若者のように「我慢して読んだけれど、意味がわからなかった」に近い我慢読み必至であった。童話や小説では迸る思いを表現するには限界があって、単刀直入にエセーで嬉々として能弁となる印象を持った。月並みだけれど、「わからないけれど、その凄みは十二分に伝わる!」みたいな。稲垣足穂が語ると20世紀が「ブレード・ランナー」みたいな近未来に思えた。小生が生を受ける前の20世紀の幾年の間は所帯染みたところはなく、非ノスタルジックな、SF世界だったのだ。ひたすらその日に見た星座を書き連ねていく日記も後から振り返ると度肝を抜かれた。つげ義春の「夢日記」以来だな、こんなにぶっ飛んだのは。
STAR☆CRAZY(紙ジャケット仕様)
本作発売当時はアイドル全盛の時代。歌謡ロックというべきミュージシャンが沢山デビューした時期でもあった。
ヴァージンVSは時代に媚びることなく、しかしそれでいて非常にポップなロックを作り出した。コズミック・サイクラーは、うる星やつらのエンディングテーマの別テイクで、とても軽快な隠れた名曲である。