世界の傑作カバン (ワールド・ムック―世界の傑作品 (502))
カバンについて、これだけ多くのメーカーの商品を紹介しているのは類書が無く、貴重な一冊。ジャベツクリフやベルトーニ、アイグナーなどといった、月刊誌等ではなかなか掲載されない写真が嬉しい。巻末には、大峡や日下公司、FUGEEといった国産一流ブランドについての個別記事もある。
ただひとつ残念なのは、一つのメーカーから一種類のカバンしか紹介されていないこと。各メーカーの代表作、数点を掲載してくれればよかったのだが。
ミスエデュケーション
FUGEES「The Score」も黄昏ていたが、この名盤も負けぬほどに夕陽に包まれていた。こころの夕焼け色の中にある思い出、彼女自身を作り上げたもの。そういうシナリーのひとつひとつを彼女は情感豊かに表現している。
例えば、女の内にある優しさも強さも、心象的な“懐かしさ”(=黄昏)と共に、せつせつと伝えられてくる。この“懐かしさ”の抽象さは文化やことばを超えた何かがあり、うたごえだけ聴いていても、こんな東洋の人間にもそれは伝わる。彼女のうたは「伝える」ということに関しては、そんじょそこらのR&Bシンガーを確実に凌駕した力がある。
そういう、イメージを伝えるちからの源は、ことごとく彼女のうたごころにあると感じている。単に歌が上手いとかそういう技術的なことを言うのではない(勿論技術があるから止揚できるレベルに彼女はある)。そのうたごころは空気感や人肌を感じさせる説得力というのか、伝えたいイメージを口から出す際にこえによってその姿を立体的に表せる業だといえる。そこにある小さな光や影、でこぼこさえも、歌い方の微妙な柔軟性と自由さで表現できてしまう。勿論その根底にあるイメージへの愛をくみ出しながらである(このイメージへの接近がなければただの技術屋に留まる)。こういうイメージの作り方が誰よりもVIVIDに出来、目の前に歌声だけで創りみせてくれること、即ち「伝える」強さこそ彼女の表現の特徴だと思い知らされた。
HIPHOPという無限の可能性ある表現媒体では、ついつい技術至上主義になってしまう場合があるが、今作では彼女のうたごころがHIPHOPという媒体力を最大限に発揮せしめている点に、他との差異を感じる。
カバンの達人
前著「鞄が欲しい」が楽しい(読んでいて楽しい)本だったのに、今回はそうでもない。僕にとっては「鞄が欲しい」の中のつまんなかった箇所を取り出した感じに見える。
ドクターKとか変に謎めかしている人については結局人となりが伝わってこない(知っている人が読めば面白がるかも知れませんが、それでは世に出す意味がない)。
ただし、作り手の人を記述している箇所はそこまでひどくはないです。お金があれば頼んでみたいという気持ちにさせます。
(ただし、お金をためて頼みに行こう!という気にまではさせてくれません。)
結局は、文における描写力がちょっと弱いのかな?
鞄のイラストは眺めているだけで気持ちよくなるぐらい描けているのですが。
ブロック・パーティー [DVD]
久しぶりに画面に釘付けになってしまった。
黒人文学を端的にあらわすHIP−HOP。
ついつい演者達のパフォーマンスに見惚れてしまう。
ブルックリンのどこかで行われたブロック・パーティーを追ったドキュメント。
この中には社会に対する憤りや不満なんかを吹き飛ばす力がある。
人生は金だけでいいのだろうか?
自由を手に入れるんだ。
Score
黄昏ている。とにかく黄昏ている。このアルバムを聴くと、何故か幼い頃夕陽の中で遊んでいた自分が映し出されはしないだろうか?とてつもない幸福感とわびしさが同居する、幼い日々のことを思い出した。そこではもはや逢うことのない人々がありありと生きている。
ローリンの声が素晴らしい。90年代といえばこのアルバム!という企画があれば10本の指に入る名盤。