一夢庵風流記 (新潮文庫)
学生時代漫画で読んだが、友人より実在の人物だと聞いて驚いた。驚きのあまり私はそれを否定してしまった。
巻末に「石原裕次郎主演で映画化した際に原作者がシナリオを担当した」と書かれている。時間がなかったため、あまりの出来の悪さにリベンジしたのが本作品だそうだ。
しかし、必死で集めた資料がペラ紙1枚・・・。よくそれだけの資料でこれだけの本が書けるものだと脱帽するばかりである。
その心意気が主人公 前田慶次郎と相通ずるものがある。
隆慶一郎というもののふが前田慶次郎というもののふの話を書く。
その心意気があればペラ紙一枚で十分であったのかもしれない。
最後になったが現在でも歴史小説の基準がこの作品となっている。
この作品を超えるものが果たして出るのであろうか、その日を心待ちにしてはいるものの、その日が来て欲しくないという思いもある。
永久保存レシピ 一流料理長の 和食宝典 ―私たちへ300レシピの贈り物 (別冊家庭画報)
この執筆陣でこの価格でこれだけの品数を紹介しているとは、実にお得な本です。決して斬新なものではありませんが、それゆえに却ってあまり紹介されることの無い王道なメニューについてのあれこれがふんだんに盛り込まれています。近年の料理評論家やら料理好きなタレントさんの本なんかを買うよりコストパフフォーマンスは遥かに良いですし、そもそも料理を作るという土台の部分がしっかりしていますし、非常に実践的であります。おススメです。
特選 吉朝庵 第2巻 [DVD]
吉朝の落語を見ていると、とにかく楽しい。それは最初にきちんと認めよう。でもその上で、このDVDには失望しているので、あえて嘆きの★3個。
失望したのはこの第2集の演目。『愛宕山』はいいとして、『狐芝居』(小佐田定雄作)ってのは…。名作だとしても(私はそう思わないが)、新作を収録している場合か?
吉朝の忠臣蔵ネタの芝居噺なら、誰が考えたって『七段目』が先だろう。古典を踏まえて、初めて新作は面白いのであって、順序を間違えてはいけない。
この演目は第1集に続いて小佐田定雄の選らしいが、ハッキリ言えば、自分の作品を選ぶというのはどういう神経なのか。見識を疑う。
生前に出たCDでは(吉朝自身が収録演目を選んだはず)、『愛宕山/七段目』という組合せになっている(「吉朝庵・その4」)。
これが、10枚組とか20枚組の全集の中の1枚で、吉朝の「芸の一面」を紹介する意味ならまだ許せる。しかし、単発のDVDしか出ない現状では、演目も芸も「絶品」と大向こうを唸らせるものを揃えて、まず実力の高さを証明しておかないと、将来、吉朝という噺家は誤解されてしまう。
折しも、『落語研究会 柳家小三治全集』(10枚組)が発売された。
吉朝のDVDも、「平成紅梅亭」より先に、「落語研究会」の映像から出してもらえないものか。BS-iの追悼番組の3席(『河豚鍋』『不動坊』『蛸芝居』)だけでもいい。
もう一つ不思議なことは、吉朝のDVDに入れる映像の選定に、米朝の意見を聞いた形跡が感じられないことだ(米朝の意向なら、TBSも落語研究会の映像を提供したかもしれない)。
米朝の意見を聞かない関係者もおかしいし、愛弟子の最高の映像ではないDVDが出るのを、黙って見ている米朝もどうかと思う。頭を下げながら言うけれど、でも言わずにはいられない。
魯山人味道 (中公文庫)
難解で偏屈で頑固。
魯山人の私のイメージはこれだ。日本料理の芸術性を高めたとか色々功績は語られるが、基本的に難解で頑固でヘンクツという印象は揺らがない。が、この本を見ていると納豆茶漬けだのなんだの、案外手軽にできるものなんかも紹介されたりしてて、贅沢三昧というよりは格物知至なのではないかという感じが見て取れる。魯山人ワールドの入り口として手軽な一冊と言えるように思います。
日本 - 禅法要 - 禅仏教の典礼 (Japan - Zen Hoyo - Liturgy of Zen Buddhism) [Import CD from France]
本CD、「音禅法要」と銘打って2008年4月22日、京都紫野大徳寺塔頭:真珠庵で行われた「法要=典礼」のライヴ録音。
ジャケット表紙のタイトルにもあるように、この記録は基本はあくまでも禅の「法要」であり、実際に大徳寺派管長の列席のもと、大徳寺の僧侶(その中には、専門道場において修行中の、プロの修行僧である雲水も入っている!)によって行われ、世界平和の祈願と大徳寺の住職でもあった一休和尚に捧げられた正真正銘の法要=典礼である。
しかしながら、このCDが独特なのは、法要=セレモニーとしての基本の枠組みを守りながら、同時に音による芸術という方向性をも強烈に指向しているところである。宗教的な典礼の記録、あるいは宗教的なインスピレーションに基づく芸術作品の録音といったものは、個別の形においてはそれほど珍しくはないのであるが、宗教的な指向と芸術的な指向とを本格的な形で調和させることは、実は極めて難しいことである。宗教は根本においてはあくまでも内省的なものであり、芸術は反対に表現することをその創造性、その「いのち」としているからである。
われわれは、ヨーロッパのキリスト教芸術(教会音楽など)の豊かな世界が、実は極めて危うい均衡の上に、しかも長い時間をかけての精神的な格闘の後に初めて成立したものであるということを余りにも忘れがちであり、ヨーロッパ世界の宗教芸術の世界が、歴史的−時間的、地理的−空間的な広がりから観れば、むしろ特殊で稀なもの、希少な精華であるということに対してもっと意識的にならねばならないであろう。
さて、そうした観点からしても、この「音禅法要」はかなりユニークなもの。法要の方は伝統的な形で進行するが、それに寄り添うような形で動いていく音楽は、既にヨーロッパ風のものとは全く違う。サウンドを聴いていると、現代ヨーロッパの音楽にも同じような感じのものがあるのでうっかり聞き逃しがちであるが、ここでの音楽は、リズムが、あるいはメロディーが「解体された」などという生易しいものではなく、全く違う論理、全く違う形式=構造で動いているのである。しかもそれが、伝統的な日本風(ジャポニズム風)のものではなく、繊細で現代的な感覚に引き付けられて結晶化されているところは、希有なことである。要するに、かなり前衛的な試みであるといえる。
総合的に言って、本CD、心の底に響き入るような静寂感とサウンドの独特の美しさゆえに、難しいことなど言わなくても十分愉しめるものであり、ヒーリング的な効果も感じられる。だから、難しいことを気にする先入観なしに聴けるならば、かなりお薦め! 因みに顔ぶれは、ツトム・ヤマシタ氏のサヌカイト(石で作られたパーカッション)、三好芫山氏の尺八と、豪華なもの。仏文、英文による15ページ程のブックレットの解説も面白い。