ベーム/W.A.モーツァルト:歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』全曲 [DVD]
1970年代へのタイムスリップの演出です。歌と音楽を楽しみたいのだから別にタイムスリップの必要は無いのだけれど・・・。普通は男性陣が外国人に変装するだけなのだが、ここでは女性陣も何度かお色直ししていて楽しめます。歌手は全員素晴らしい。デスピーナも好演。でもこの演出では、元の鞘に納まって結婚は無理です。実験は失敗です。レッシュマンの第14番のアリア、第25番のロンドはモーツァルトのファン、このオペラのファンにとっては十分に感動的でしょう。
ルートヴィヒ 復元完全版 デジタル・ニューマスター [DVD]
昔、岩波ホールで並んで(このような渋い映画に並ぶような時代もあったんですね)
3時間ものあいだ堅い椅子に座って鑑賞しました。しかし、お尻の痛みを後悔させ
ない映画であったことは確かです。どう考えてもハリウッドでは、いや
ヴィスコンティにしか描けない映画であり、彼の映画を愛する人にとって
永久保存版であることは言うまでも無いです。
マーラー:交響曲第2番《復活》
んーっ…フレディ・ハバード「オープンセサミ」やナック「ゲット・ザ・ナック」みたいな…若さに任せて音楽的情熱と才能を出し切った名演…ただホントに出し切っちゃった…この後のメータは「指揮屋さん」って感じです、聴いてて辛い。
この頃のウィーンフィルは、ベームとブラームス全集やブルックナーの名盤を次々に録音していった黄金期、しかも若いコンマス、ヘッツェルはメータと同世代、演奏が悪い訳が無いです。
それと、やっぱりクリスタ・ルードウ゛ィヒ…六十年代が彼女の全盛期だけど…晩年の録音に聴かれる「凄み」は圧倒的な説得力が有ります。(ベームと録音したブラームス「アルト・ラプソディ」も素晴らしい!)
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)
ヴィトゲンシュタインの「論考」は難しい本である。ヴィトゲンシュタインの本であるということもあるが、独我論の立場で一種独特の言い回しがあり、通常の読者では目眩がしてくるようなところがあり、最後まで読み解けないからである。特に、現象学経由で「言語ゲーム」以降のヴィトゲンシュタインから入ってきた場合は尚更である。野矢氏の「「論理哲学論考」を読む」という本は独我論者の本を非独我論者が翻訳した本として、私の知る限り、多分、唯一のものであろう。野矢氏の読み解きによれば、「論考」は「世界→事実の総体→対象への解明→要素命題の配列と操作→独我論的論理空間」として理解できる。従って、事実に基づかない「信念」や[倫理」や「価値」を認めない立場としてヴィトゲンシュタインを解釈する。(但し、要素命題の独立性については間違いとして、「修正・論考」を再構成してみせる。)ここまでで、十分に星5つの価値はある。
ヴィトゲンシュタインが何故「論考」後の沈黙から、「探求」を再開したのかは不明であるが、私には、人間が独我論的論理空間にないナンセンスな命題を信じることができ、更には、いとも易々と言語交通(コミュニケーション)を成し遂げている事実の不思議に気がついたためではないかと考えている。そして、それは「文法」という言語ゲーム規則に沿ったものであると考えられる。後書きで野矢氏が述べたように、「論考」により構成された純粋な「世界」は「探求」の「文法」の中で初めて位置づけられる。ヴィトゲンシュタインが「論考」の思考を経てきたからこそ、ナンセンス命題も含む「文法」に気がついたのだと考えるのである。「探求」は美しい結晶ではないが、読めば個々の議論は分かってくる。「論考」を「探求」レベルまで読み解いていただいたことに感謝である。最後に、蛇足ながら、できれば、独我論者の永井均氏の著作も翻訳してもらえないであろうか。
小澤征爾 / マルタ・アルゲリッチ [DVD]
オザワとアルゲリッチの掛け合いが素晴らしいです。
アルゲリッチの力強く魅力的な響きと、小澤征爾のアンサンブルに込められた哲学が絶妙に融合し、トータルとして、大変素晴らしい音楽が作り上げられています。是非一度聞いて見て下さい。