遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)
遠野物語と遠野物語拾遺を合わせて299話の短編集、一話平均約400字。
遠野物語は、民間信仰、栄枯盛衰、山中での出来事、妖怪、動物、行事、昔話など素朴な話が集められている。みな懐かしい感じがし、お伽やグリム童話といった説話のような説教じみた堅苦しさはない。話からは間接的に当時の人々の考え方や習俗、道徳観が伝わってくる。古今の文化の変化を考えると興味深い。民俗学の重要な史料となっている事も頷ける。
拾遺は題名のごとく残りの雑多なものという感じである。たとえば、当時(明治から昭和初期)の流説も混じっているようである。今で言う「口裂け女」「ターボじじい・ジャンピングばばあ」「こっくりさん」のようなもの。これはこれで当時の風俗を垣間見たようで面白い。あるいは、「先祖伝来の、開けると目がつぶれる箱、なるものを今の代の主人がどうしても見たくて開けたら、布が入っていただけだった。」という話では、近代化に伴い、未知に対する畏怖の消失が現れている様で興味深い。
遠野物語・山の人生 (岩波文庫)
河童や座敷童子で有名な「遠野物語」は宮沢賢治の童話のイメージと相まって、「懐かしくも美しい東北の自然と幻想」といったイメージをかき立てるようだ。(実際そのような「まち起こし」が現地では盛んである。)だが、実際にこの岩波版に収まっている「山の人生」「山人考」と一緒に「遠野物語」を読むと、そのようなスタジオ・ジブリ的お伽話へのセンチメンタリズムではなく、「常人」の文献に書かれた「日本史」から漏れた「山人」達が鬼や山姥、河童等に読み替えられたという視点から、日本史を民俗学的に再構成しようとした意図と熱意がかなりストレートに伝わってくる。なので、この本を読みながら遠野を歩く場合、奥深い山々を見ながら「山人」達のかつての暮らしぶりに思いを馳せるような民俗学/歴史ロマン寄りの旅の方が僕にはシックリくる。実際、本書所収の桑原武夫の文章(昭和12年発表)や「遠野物語」に触発されて同名の写真集(昭和51年発表)を出した森山大道によると、彼らが現地を訪れた頃には、既に現地民は本書に書かれた民話の地名すら知らなかったという。「遠野物語」がツーリズムに利用されて読み方が変わるのは、地方観光ブームが起きた昭和の終わり以降ではないか。
さて、著者が語る「山人」や妖怪等には、大和朝廷以前から山岳地に残っていた狩猟系民族であったり、精神疾患者、奇形の子供等などが含まれている。こういった農村共同体からはみ出て暮らしていた人々、暮らさざるを得なかった人々への哀れみや温かい視線が本書の文章の端々から感じられる。勿論、柳田の山人理解やイデオロギー性が現代の民俗学では批判の対象になっている訳だが、それでも僕は本書の一番の味わいどころはこの温かさにあると思っている。