Shape of Jazz to Come
1959年5月22日、ハリウッドで録音。新しいサウンドを求めていた当時のジャズ界に『フリー・ジャズ』の中心的存在として登場したオーネット・コールマンの代表的な作品として名高い。
そして今聴くと不思議なことに最も有名な『淋しい女』よりも、むしろ『イヴェンチュアリー』より後の曲の方が興味深い。なぜなら独特のフレージングの取り方と和音の展開、リズムが後続の有能なミュージシャンたちの根っこになっていると思えるからだと思う。代表的なのがパット・メセニーで、彼のギターのフレージングの多くはオーネットのそれに多大な影響を受けている。ある意味アルト・サックスで実行された音楽を、ギターに弾き直し、発展させたものがパット・メセニーの音楽の根底にあると思えてくる。
それはパットに限らない。ここで競演しているドン・チェリーにしてもチャーリー・ヘイデンにしても色濃く、オーネット・コールマンの独特な触感を受け継いでいる。そういう観点からもジャズ史上最重要アルバムの一つと言えるだろう。
ダンシング・イン・ユア・ヘッド
バーゲンコーナーのワゴンに置いてあったのと
帯に書いてあったフリーファンクという謎のジャンルと
(実際はファンクではなくジャンル分けできないから適当に誰かが言い出したのがフリーファンクなのだと思います)
さらに怪しげな上から見ても下から見ても顔ジャケットが
すごい気になって
買ってしまいました
僕の場合
今までフリージャズをうたうアルバムでよかったと思ったアルバムは全く無かったのですが
今回は別格でした
適当そうな演奏もやる人の才能によってはすごく聴ける!と実感しました
偶然の重なりがグッとくるようなパターンを生み出したり
かと思えば解体されたように急にバラバラになったり
馬鹿っぽい脳天気さの中に陶酔していくような気分にれます
1曲目と2曲目は同じ曲の別テイク・・・
と言っても
主題のリフだけ同じで曲は全くの別物です
3曲目はモロッコの民族楽器をバックにサックスを吹きまくる曲
音符と音符の間の音を排除した絶対音の西洋音楽を脱却したような新たなハーモニーとミュージシャン同士の熱い交流を感じました
毎日聴くような音楽じゃないけど
何故か時々聞きたくなります
しかし、よく16分近くもこのテンションが続くなぁ・・・
ジャズの十月革命 (植草甚一スクラップ・ブック)
表紙がビル・ディクソンなので期待したが、内容はほとんどがオーネット・コールマンの話。
おまけでセシル・テイラーという感じ。
フリージャズを総括するような内容ではないのでご注意を。
オーネットやセシルのファンであれば読み応えはあると思いますが。
ジャズ来るべきもの(+2)
ジャズを聴き始めた高校の頃、マイルスやアート・ブレイキー、コルトレーンというお決まりのアイドルにはまり、すごく気にはしつつも敬遠していたのがオーネット・コールマンであった。もちろん彼がモダン・ジャズの最大のイノベーターの一人であることは知っていたし、コルトレーンやドルフィーのフリーキーな演奏にも親しんでいたので、興味がないわけではなかった。最初に聞いたオーネットはそのドルフィーらとの文字通り「フリージャズ」というアルバムで、ジャクソン・ポロックらしき作品がジャケットに使用されていた点も、当時美術に進もうと決めていた僕にとって親近感を抱かせるものであった。しかし意外にも、アトランティックのこのデビュー作は聞く機会がないまま、ロンリーウーマンという名曲の存在ともども幻のアルバムとして心の隅にあり続けた。そして、おそらく30代半ばくらいに初めて聴いたとき、これがフリージャズの旗頭となったオーネットの問題作なのかと、少々驚かされた。新しさがないというのではなく、想像以上に美しく、やさしい音楽だと思った。そしてそこから発せられたフリー<無調>という概念の鮮烈さの意味が少しわかり、以前から漠然と思っていたフリージャズという概念に対する疑問が氷解したのであった。無調であるということが「でたらめ」ということではなく、既成のコード、リズム、メロディという要素の枠を新たな概念や規範によって再構成することという、いわば当然のことが実感できたのだ。美術にもいえることであるが、具象的な絵画しか絵だと思っていない人にとって抽象絵画が、でたらめに見えるように無調やモードでさえも、いやもっといえば通常のインプロビゼーションすら「わけがわからん」という精神の埒外に飛んでしまうのだろう。この音楽との出会いが、また一つ豊かな世界を知らせしめたのだ。オーネットに感謝したい。