瑠璃色の石 (新潮文庫)
「第一章」は戦後の混乱の中、若き日の津村氏である「私」が学業をあきらめ切れず、学習院短大へ入り、同人誌の「文学を志す」仲間と切磋琢磨しながら、少女作家として活躍しはじめるまでが描かれる。三島由紀夫のエピソードなども興味深いが、「文学をやる」のだから結婚はしないと「私」が思い定める点などには、羨望にも似た気持ちを抱いた。この時代には、なんとひたむきに夢を追う人々がいたのだろう。
そして卒業時に「私」は、文学仲間の吉村氏から「瑠璃色の石」がつらなったネックレスを贈られる。プロポーズ代わりらしい。その後二人は結婚し、二児をもうけるのだが、二人の関係は、瑠璃色の爽やかな色合いのものではなく、石の重みに耐えるようなものへと変容していくのだ。
続く「第二章」では、夫婦とも小説書きであることの苦悩が淡々と描かれる。「私」の方が早く売れっ子少女作家として一本立ちし、家計を支えるようになるが、内心では大人の小説家になるため研鑽を積みたいのに、家事や育児でままならない。一方、夫の吉村氏は収入もなく無名作家のまま、四回も芥川賞候補になったが受賞ならず、自信を失っていく。「私」のきわめて冷静な語り口が、夫婦間の緊張を痛々しいほどに際立たせる。そして、吉村氏が家を出るところで、突然この小説は終わる。
数年後、夫をモデルにした小説で津村氏は芥川賞をとり、翌年、吉村氏は別の賞をとってようやく認められていくのだ。八木義徳氏に「夫婦で小説を書くのは地獄だね」と言われた、と書かれているが、小説家の業とはなんとすごいものだろう……。
2006年、吉村氏が自ら延命装置をはずして尊厳死されたことは記憶に新しい。今ではほとんど死語のように響く「文学を志す」という言葉の重みと奥深さを、久しぶりに痛感させられた一冊だった。
遍路みち
いかに吉村昭という人が偉大であったか…。いつも冷静で潔癖な節子さんが妻として恐ろしく取り乱している…。そんな風に思ってしまった。
私はずっと吉村・津村夫婦作品の大ファンであるし、人間的にもお二人を尊敬するものであるが今までこんなに取り乱した姿の節子さんを作品上で見るのははじめてである。今までのご夫婦の私小説的な作品の中、吉村昭が夫人の節子さんにべたボレなのを堂々と表現しているのに対し、節子さんは同じ事柄を描いてもぐっと夫に点の辛い描き方であったように思う。ちょっと吉村さんに冷たいのでは?と思えるほど夫の身勝手さ、を書いていた。ところがこの本に納められた「遍路みち」「声」「異郷」では潔癖症の節子さんが、吉村さんの死にうろたえている自分をそして妻としての嘆きを素直に表現しているのである。今まで意識的にのろけるのを避けていたのだろうが、ここにはいつになく素直に夫に脱帽する妻としての節子さんがいる。無心論者の吉村さんがじっと死病と対峙している時に、話をしたいであろう夫の気持ちを汲みきれず出版の準備に追われていた自分の姿を悔恨する節子さんの切なさ。その妻の姿をじっと見守るる病床の吉村さんも切ない。それにしてもかの吉村昭にこれだけ最後まで愛された節子さんは幸せであるとつくづく思う。